冷静と失禁のあいだ

死ぬまで踊り続けるマグロさんの話

コルセットで精神を引き締めたい2018

あけましたね、いかがお過ごしでしょうか、私は年末からお正月にかけての、街ゆく人たちの表情や会話、雰囲気が大好きなので(いつも、朝は忙しなく、精魂尽き果てたサラリーマンの顔を見ているので)自身もだらだら、ゆるゆると過ごしておりました。時間に余裕がある時の料理は最高に楽しいです。何時間もかけて鍋をコトコトをさせて、ああなんてゼイタクだ、としみじみとしてしまいました。

そうこうして、日頃の緊張がゆるっとほどけたのか、年末はぶっ倒れました。

きっかけは年末のドタバタ感と、早く休みになってくれ!という焦りからでしょうか、駅で過呼吸パニック発作を起こして倒れて人に大迷惑をかけ、なんとかタクシーで帰宅しました。もうしんどかった。あれおこる度に、人生最悪の体調不良をきたしていると思わせられる、真冬なのにダラダラとつたう冷や汗、氷みたいに冷たいゆびさきと顔、息切れと涙、ボロボロになった状態で人に迷惑をかけるので本当に最悪だ。せめて、ハンカチで口元を隠して「ごめんなさい、ちょっと気分が悪くて」とコルセットに苦しめられて気を失う貴族の品のある余裕をみせたいところよ。

何とか家に帰れたのは奇跡に近い。そのまま死のうとしたくらいにはきつい発作だった。ベッドで横になって、また泣いた。

今度は安堵の涙だ。こんな状態で年越しをしていたら、またパニック発作を起こした。

一回目は洋ドラ、ゲームオブスローンズ(GOT)を見ているときに、あまりに暴力表現が過激すぎて心が折れたのか、具合が悪くなり横になり、二回目は紅白歌合戦で平手ちゃんが苦しそうにダンスパフォーマンスを終えた瞬間だった。映像を見てから、涙が止まらなくなり、過呼吸発作がまた起きた。

こーんな調子で自分のことできるのかなあ。半ば意識を失いかけた頭でぼんやり考える。

1秒後に理性が「できるとかじゃなくてやらないといけないんだ」とぼやく。

もうほんと、いっそコルセットを常に着用してしまいたい。

プライドとやらを身に付け、気を引き締めていきたいと思った2018。

1年の終わりに、マリアのレシピを

先日、邪宗門に足を運びました。 

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「ゆんさんって森茉莉が好きそうだね」

と言われたのはいつだったっけか。

いつ、どこで、誰に言われたのか思い出せないが、初めて森茉莉を人からすすめられたとき、私は国語の授業を思い出し、あっ、あの人か、と腑に落ちたことはやけに鮮明に覚えている。

国語でちょうど舞姫を扱っていた時だ。

授業で森鴎外についての文学史もさらりと扱った。そこで、余談として話されたのが森茉莉のことだった。

と、黒板に変わった名がすらすらと書かれる。

今でこそ、キラキラネームの先駆者というイメージを持たれがちだが、学生当時は由来する読みが印象的だったので、その一回きりで、みごとに頭の片隅にこびりついてしまったのだ。

かくいう経緯で、森茉莉のことはその余談で知り、加えて、人から好きそうと言われたことがきっかけでまともに知ることになったのだ。

そして、最近になってようやく彼女の著書を手に取ることになる。

 

私の背中を押したのは、食であった。

 

私をよく知る人はご存知の通り、私は相当の偏食家だ。なんでも食べた森茉莉とは対照的である。好き嫌いが激しく、外食で口にする肉や魚は臭かったり血の味がするだの騒ぎ立て、ギトギト油の強い料理を食べると翌日までお腹を壊す。友人に誘われて食べに行ったケーキは見た目こそ可愛らしかっただが味はただ甘みがある粘土のような、咀嚼するだけで「ウプ」となり、吐き出したくなるものも多々あった。(なので、お喋りの内容なんかよりも、食というか、味覚の趣味が合わない人とは親しくなれない、味覚の方がよっぽど正直なので)

あまりに偏食がすぎるので、私は1、2年前くらいから料理を始めた。

料理をすることにより、私は、少しずつ、自分の好みの味付けのレパートリーを増やしていった。本屋に行くと、料理本が置いてあるフロアで二時間ほどレシピ集を眺めて、どうしたらもっと美味しくなるのか、好みそうな料理はないか、とうろうろとしたり、じっと頭の中で作業工程をシュミレーションしたりして(これがすごく楽しい)過ごすこともある。

ある時私は、その本屋で森茉莉のエッセイをみかけ、手に取った。そういえば森茉莉をすすめられたこともあったし、国語の授業でほんの一瞬話題になったな、と点と点が繋がったのだ。

読み始めると、ページの殆どが食についての話題で埋められているではないか。

しかも、相当面倒くさそうなまでに料理や生活についてあれこれ言っている。エッセイには様々な森茉莉がいた。

冷たい紅茶にはここの氷じゃないと嫌だ!とわざわざ氷だけを求めて外に出る森茉莉、料理の腕は一人前だがその他全ての家事生活は怠惰だった森茉莉、ときに少女のように父、鷗外を思う森茉莉、カーディガンをたくさん買い込んで箪笥にしまっている間にうっかり虫に食わせてしまって夜中に「誰も見まい」と川(!?)に流しに行く鷗外一家のことなど。 

途中、レシピのメモがいくつも書かれていて、先日、それに倣って、『牛肉とキャベツの煮込み』を以下のサイトを参考にして作ってみました。

 

森茉莉の料理: プルート通信

cookpad.com

どちらもブイヨン、コンソメキューブを使っておりましたが、今回は使わないで、出来上がり際の塩コショウのみの味付けにしました。以下私が行った手順。

1,牛スネ肉(150g)とキャベツ四分の一ほど(なるべく多くした方が良かったかも)を深い鍋に入れて、水をひたひたにして15~30分ほど中火で煮る。この時、肉がキャベツに覆われている方が良いかも。
2,沸騰してぐつぐついうと、アクが大量に出るので、すくってきれいに取る。水が足りなくなったら、その都度足す。沸騰してアクを取ったら、3時間半くらい弱火で蓋をして煮る。
3,肉がホロホロになったら、塩コショウで味を調整して、火を止める。適当なサイズに切り分けたトマト(私は皮を取った)を入れて、刻んだパセリをかけて、完成。

 

以上です。超超簡単。ほぼ、ポトフの手順と同じですね。私は肉の臭さが苦手なので、ポトフを作るときはセロリとブーケガルニを入れてさらに野菜を入れています。しかしこのレシピは肉の臭みを消すといったことをしていないので、味が気になりました。シンプルな味付けでどういうものが出来上がるのかあまり想像がつかなかったので余計にワクワクしたり。

で、食べてみた。

うまい。すごい。

たぶんパセリとトマトが大事なんだと思う。スープは塩でもじゅうぶん引き締まる。肉の濃さや強みが、トマトのあまじょっぱさで中和されつつ、パセリがハーブ代わりになって程よく臭みを消している。すごい。ちゃんと具材の役割が見えてくるレシピだ。薄味だが、自然なおいしさがやみつきになって、箸が止まらない。お腹がすきすぎていたので写真を撮る暇もなく、写真は割愛。

 

 ところで、森茉莉は、料理は精神をこめないとダメと言った。

 

1年の終わりが近付き、正月を迎えるにあたって、正月料理はひどく薄味に感じるかもしれない。

特に、労働をして外食や飲み会続きな人たちは尚更だろう。しかし、心機一転、気持ちのいい新年を迎えるのに、森茉莉のレシピは優しさに溢れているからオススメしたい。そして料理も。

恋人や家族と過ごさず、一人の方も(森茉莉も2度離婚を経験してほとんど一人だったそうだ)精神と身体、身体という役割を担った方の自分をいたわって、ありったけの精神を込めて自分のために料理をするのも、いいかもしれませんね。疲れた体に沁みますよ、では、よいお年を。

正夢

ここのところ、憔悴しきっていたせいか、幻覚がひどく、眠りの浅い日が続いた。

ベッドの隣で、ウッ、ウッ、ウッ……と唸りながら泣く女性の声で目が覚めた。驚きすぎて、ぐるっとあたりを見まわしても、姿も形もなく、しかしどうしようもなく恐ろしい気持ちと、耳の奥にこびりついた声が忘れられなくて、まだあまり顔を出してない朝日を求めて窓を開けた。真夜中と朝の中間で、まだ明るさすら感じなかったが、とにかく解放されたかった。薄暗い景色をみつめて、微睡。再び眠りについた。

といった感じに、毎晩幻聴幻覚に度々見舞われて過ごしていた。

これらの症状は、疲れすぎていることを示していたようで、私は、後日、泣きながら倒れてしまった。3時間ほどその地獄に焼かれるような苦しみから逃げ出す事が出来ず、海が出来るくらいに涙をぼろぼろこぼした。もう、いっそのこと、身を投げて死んでしまおうか、と脳味噌が判断してしまうほどの苦しさだった。そして、昨日も同じように倒れこんでしまった。

意識が飛びそうな苦しみのなかで、ああ、あの、意識が現実か夢かもわからない曖昧な状態で見た泣いている女性は、ここのところ色々な気持ちを殺しながら傷付いていた自分の叫びだったのかもしれない、とふと思った。

私がここ三日間でありったけの涙を流し、泣き叫んだおかげか、あの幻覚はもう現れていない。

私から見たら皆さんも白河ことりだということ

箸休めの自分の話です。この記事は「こじらせと自分語り」がテーマなので最後まで自分のことについて書いてます。

理解とは誤解の総体である。

そんなことを村上春樹が書いていたね。

 

私が生きづらさを感じ始めたのは、幼稚園の頃である。

それは突如としてやって来たのだ。

ある日のこと、私はいつものように眠るため、両親と布団に入った。そして、それは唐突に起きる。目を瞑って、いざ入眠、というところまできた瞬間だった。

「あれ......?いつもどうやって寝ていたっけ……?」

ふと、疑問に思い、しかし、これといった解決策もなく、そうして1時間、2時間と過ぎていくと、両親はすやすやと寝息を立たせ始めた。

 

――睡眠って何のためにあるのかな?

――寝方ってどうすればいいのかな?

 

今まで自然に出来ていたはずのことが出来なくなっていた。

とりあえず、見様見真似で布団の中で、ぐっと目を瞑ってみる。

すると、 

どくん、どくん、どくん

という音に、私の世界は包まれた。

 

当たり前のことだが、目を瞑ると、視界は真っ暗になる。世界の境界線が曖昧になり、心臓の音が、暗闇の中から、のそのそとやってくる大男の足音のように聞こえて、不安が募っていった。

 

そして、得体の知れない恐怖を抱いたまま、朝を迎えた。

 

――こうして私は僅か5歳にも満たないうちに、不眠に悩まされることになった。

 

それから、私は寝ることが苦手なまま成長していった。

 

あんまりにも時間を持て余していたので、夜遅くまでマンガを読んで時間を潰し、寝落ちするまで何かをして過ごしていた。そのせいか、当時2.0もあった視力は0.1まで落ち込むことになる。

 

小学1年から中学の終わりまで1年に2回参加したキャンプでは、3日、5日という宿泊期間をほとんど寝ずに過ごした。寝ずに、5日間、朝から晩までスキーをすることもできた。今じゃ絶対に不可能だ。また、この期間はいくら食べても、ろくに排泄ができなかったことをはっきりと覚えている。家に帰るとふっと緊張が抜け、通常通りの排泄が出来るようになるのだ。

 

そして、不眠の次にやってきたのは、悪夢だった。

omaega-shine.hatenablog.jp

 

悪夢を見るようになったきっかけも、幼少期の体験が原因かもしれない。今思えば可愛らしい出来事だったのかもしれないが、当時の私にはかなりのインパクトがあった。

その体験とは、

幼馴染の家に行ったら、幼馴染の母が大のカルト映画好きで、『エイリアン』シリーズをみていたので、私もしょうがなくこれを見た。

というものである。

幼稚園児の私は、『エイリアン』の映像の恐ろしさに、ただただ圧倒された。

観賞した日、私は真夜中に叫びながら起きた。唸り声をあげ、泣きながら悪夢にうなされる様子を見て、両親がびっくりしていたことを今でも覚えている。

 

『エイリアン』シリーズに関しては、いくつか劇場で見た覚えがある(と思う)。その幼馴染も、母親同様、カルト映画にハマっていたのだ。

 

そして、悲劇が起こる。

 

私は、幼馴染とその母親に連れられて、再び、無理矢理見させられた。正確には、私はポケモン映画のエンティが見たかったのに、あろうことかじゃんけんに負けたせいで再び、強制的にエイリアンシリーズを見させられることになった。

 

自身の『エイリアン』シリーズへの理解が深まるたびに、私の悪夢はどんどん悪化していった。また、当時放送されていたERも親や幼馴染の母親がハマっていたせいで見ていたが、(家が狭すぎて逃げられなかった)腕が吹っ飛ぶシーンや、なかなかグロテスクな展開があり、私に映像としてのトラウマを生みつけていった。

 

この悪夢をみたことがきっかけとなり、日常的に悪夢に悩まされる日々が続いた。

 

当然、不眠はひどくなった。

 

上記のブログ記事にも書いたように、私の悪夢は、夢を現実のように体験してしまうリアルな内容だった。こうして、毎晩眠るのが怖くなった。眠ると夢の中でエイリアンの世界に連れてかれ、恐ろしい目に遭うからだ。エイリアンだけでなく、ニュースで見た殺人事件や、電車の中で経験した痴漢など自身のトラウマとなったことが永遠に夢に出現し、何度も経験させられた。夢では、夢の中で死ぬまで(または印象的なエピソードの再生が終わるまで)、起きることができない。怖いし、何より痛みがあるし、本当に苦痛だった。

こういった現象が、現在まで続くことになる。

 

まともな睡眠が取れないとどうなるか。行動に異常をきたすのだ。

睡眠がまともにできず、恐ろしい夢を見るというストレスを共有出来ないまま、誰にも理解されず、私は勝手に一人でいらいらして、めちゃくちゃな学生時代を過ごし、小学生~中学の期間はほとんどいじめを受けて過ごした。少し苛立った出来事でも忘れたり、水に流されたりするものだが、夢の中で再生されてしまうので、全く関係ない時に思い出してはイライラしていた。イライラしては他人に当たり、大変見苦しい行動をしていた。

 

いじめについての相談に乗ってくれた友達に愚痴を零すと、話した内容が手紙回し(授業中、紙切れにメモを書いて渡すやりとり)に書かれて筒抜けになったり、なぜ嫌がらせをされるのか理解できなかったから「どうしてこういうことをするの」と書いた手紙をいじめの首謀人物に渡したら、目の前で破り捨てられ、そのままゴミ箱に入れられたり、消しカスを授業中に、背後から投げられて笑われたりと、クラスのみんなが敵で、とにかく辛かった。

 

やってないことを自分のせいにされて、下駄箱に『死ね』と書かれた手紙が入れられていたり、上履きはお茶がかけられて水浸しになったこともある。そういうことが毎日起きたが、私はインフルエンザでしか学校を休まず、毎日学校に通った。勉強は全く頭に入ってこなかった。成績はどんどん悪くなり、高校に上がれないぞ、と担任から呼び出しを食らうまでに落ち込んでいた。成績表には、5段階のうちの2(1が落第)がいっぱいついていて、アヒルちゃん天国だった。

 

本当はここで勉強に逃げるべきだったと、心底後悔している。勉強で見返せば良かったのだ。

 

だけど、中学3年生にもなって小学校で学んだこともほとんど身についていないような学生に、今更「よし、勉強で見返そう」なんて気は一切起きなかった。

 

 挙句の果てに私が逃げた場所はインターネット、趣味の世界だった。

 

会話する相手も少なかったことから、私はゲームにハマった。

それも普通のゲームではなく、ギャルゲーである。ブックオフで初めて買ったギャルゲーが『ダ・カーポ』だった。これが死ぬほど面白かった。可愛い女の子が私に優しくしてくれて、私に惚れ、会話をしてくれて、結ばれて、ストーリーが完結している。以降、私は物語に没頭することになる。

 

たまに人から本を多く読んでいることを褒められるが、断じて私は文学少女ではない。本物の文学好きに失礼だと思う。これは、私が文学史には全然魅力を感じない上、ギャルゲーが面白すぎて、物語に魅力を感じ、その延長線で読書に没頭しただけだからだ。

 

文学史が細かく掲載されている常用国語便覧は、面白い作品の情報が載っていたりするので、情報誌として読みふけっていたが、○○が××と同人誌を作り、△△派というものが確立された、などといった歴史っぽいことはさっぱり興味が無かった。暗記することもできなかった。正直言って、クソどうでもよかった。

 

このあたりから、狂ったように本を読んだ。多い時は月に60冊ほどの物語に没頭した。並行して、ギャルゲーとアニメにもハマり続けた。

 

当然、授業中にも読書をしていた。

先生の話よりも本のが完結していて、なによりも物語があったからだ。

授業中に本を読んでいると怒られるので、仕方なく国語の教科書をめくった。

衝撃的だった。

予想外に面白かったのだ。私は授業そっちのけで、教科書に載った評論や小説を読みまくった。そうこうするうちに、国語の授業にようやく身が入るようになった。

すると、国語の成績が2から4まで上がった。それでも授業はクソつまんなかった。山のように課された読書感想文の課題と、作文、授業中に課される小説の創作だけが楽しかった。その後私は先生のすすめで文芸部に入り、毎月のように小説を書きまくった。そして、ちょっと大きなコンクールで賞を貰った。大きな講堂で表彰され、メディア報道人にバシャバシャ写真を取られ、食事会でもてはやされ、有名な作家に作品の感想をいただいた。

 

気づくのが大分遅かったかもしれないけど、私は評価に興味がなかった。褒められても、貶されても、何も思わなかった。生まれちゃった作品は、自分の子供のように大事だが、あくまでも自分から分離していった何かに過ぎない。自分の手を離れた作品というものに、一切興味や愛着が続かなかった。

また、小説を通して伝えたいことなんて何一つとしてなかった。ただ、その時フラッシュするように鋭く、強く感じた何かについて、ありったけの感情を込めて書くことだけが楽しかった。

思ったことをどれだけ評価されても、その内容がどうであれ、自分の方向性を変える気はさらさらなかった。ただその時一番書きたいものを、納得いくまで書いていたいと思っていたのだ。

 

大学に入って、サークルクラッシュ同好会(全く貢献していない、会誌に寄稿くらいしかしてない)やらなんやら色々なサークルを見たり、人に出会ったりして、他人が持っている物語を回収していった。

のぞきをするように、他者の深淵に触れるのが大好きだった。

本当は親密にならないと開示されない情報を、親密にならなくとも知ることができる。なんだか、エロゲーでいう、イベントCGをチートして回収率を100%にしていく作業みたいだ。だから人間関係は殆ど失敗した。

人間関係を、関係を持続させることに興味が無かったからだ。物語としての他者にしか興味を持てなかった。

だから人を傷つけることも沢山あったと思う。いろいろなことが面倒になったり、その人自体を大事にしてあげることができなかった。私には、その人が、どういう理由で、そういう行動を選択し、こういう結論、結果に至った、そういう情報だけでお腹いっぱいになれたし、十分だった。

本当に数少ない幼馴染や友人はとても大事で、不思議なことに関係に、興味が持てた。なんでだろうね。

ある幼馴染の女の子は私とは全く異なる思想を持ち、「人間関係を大事にしろ、その人と関係や縁を持ったことに対して責任を持て」と話す。

私は彼女の思想や考えが大好きで、人と関わる時の姿勢も好きだし、人としても本当に尊敬している。一方で、私はあっさりと人間関係を切っていく。

私と彼女はお互いのことを理解していないはずだけど、仲良くし続ける事が出来ている。(もし裏で何か言われていても、一方的に尊敬できるくらいだ)。

 

いつだって私は一方的にしか物事を捉えることができない。

行き過ぎた共感や受容の先には誤解しかない。

だからこそ、一線を引いたり、超えたりする尊敬が私には必要だった。尊敬もある意味で同化しないための線引きであるような気がする。また、物語も自分とは完全にかけ離れた対象に過ぎない。私は、どちらも同じ位好きだ。

 

もうじき2017年が終わる。 2017年も何人かの人を失った。

 

面倒くさい体質と、人格を抱えながらも、私は数少ない友人と、大好きな本やエロゲーやギャルゲーがあるから何とかなっている。

その友人たちがいなくなってしまっても、私は大丈夫でいられるのだろうか。ふと、不安がよぎる瞬間も、絶え間なく続いている。

だけれども、ベッドの横で微笑む、一方的な彼女の存在がいつも私を励ましてくれる。

 

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――白河ことり

 

パッケージから、外側にいる他者(私)に向かって無言で微笑む存在。無言の肯定。

これでいいのだ、と思いたい。

これで、十分だったのだ、と。

少なくとも、私には。

12/6の夢日記

 

随分、長い旅をしていた気がする。私は長旅に疲れて、列車に揺られていた。レールの上を走る列車は、古いせいか木の背凭れが軋み、ミシミシと音を立てていた。

緑色の少し剥げたクッションは寝心地が悪く、私は、ミシミシ、ミシミシ、ガタンゴトン、という音にだけ集中していた。

隣には、白髪というには気が引けるくらい、艶やかな銀色の髪を持った老婆が座っていた。老婆は丸縁の眼鏡をかけており、赤いチェックのショールに身を包み、若々しさを感じる、どこか洒落た雰囲気があった。

私はその老婆と旅先で起きた出来事についてのあれこれを話した。

私と老婆はとても気が合い、老婆は楽しそうに私の話を聞いてくれた。列車が東京駅のホームに滑り込むと、我々は、楽しく言葉を交わし、親密な関係を築けたと思い込めたにも関わらず、名を尋ねることも、明かすこともなく、ましてや、連絡先を交換することもなく、ごく自然に別れた。

東京駅1番ホームに至るまでのレールはなぜか林に包まれており、レールのすぐそばにケーキ屋や雑貨屋といった露店があった。列車の窓から、ピンクや赤いリボンで装飾されたケーキを見つめていると、何だかドキドキした。それらの色は、周囲の木々や自然の持つ緑色に強調されており、特別な不自然さがあった。ケーキなんてありふれている。今日までそう思っていたが、町中に並ぶケーキ屋よりも、林の中にあるケーキ屋の方がずっと魅力的に見えたのだ。何だか、ヘンゼルとグレーテルが森の中にお菓子の家を見つけてしまった時のような――。そんな気持ちにさせられたのだ。

私は列車を下りるとすぐに、レールの敷いてあった林に向かおうとした。東京駅は、土産物を求める人や、買い物をする人たち、早く帰宅して家族を抱きしめたいがために人混みを搔き分ける人たちで溢れていた。あまりの人の多さに移動するにも一苦労した。

1階のフロアから2階へと上がる踊り場で、私は人込みを一歩引いた目で見つめた。

私は今、この人たちのどこにも混じれてはいないが、しかし私はここに存在することで、この『何か目的を持ちながら移動する人たち』に混じれていることに興奮していたが、人混みを見下ろす事で冷静さを取り戻していた。すると、老婆と話したことについての一切の事を、私は思い出せなくなっていた。

私から私へ

わたしへ

 

もうすでにわかってるとは思うけど、あなたはすごく弱いです。

体も心もすごく、すごく弱いです。

あなたはすでに疲れきっています。いくら塀を高くしても、他人はあなたにとって常に新しいからです。

このままだと、あなたは一生塀を高くし続けるだけの作業で、生涯を終えることになります。

だから、その新しい一つ一つに対応していこうとしないでください。

くれぐれも、違いを理解出来るようになる、だなんて烏滸がましい真似はしないように。

違いは、認知に留めて下さい。それがあなたのためです。

あなたは、今までの人生において十分過ぎるくらいに肯定されているはずです。他人がくれた言葉を無駄にせず、きちんと受け止めてください。もちろん、悪いこともきちんと受け止めてください。

そのどちらの評価も常に頭の隅に置いておいてください、いつでも思い出せるように。

具合が悪くなったら、ここに処方箋がありますから。必要な分だけ受け止めるようにしてください。

 

わたしより

ノクターナルアニマルズ 感想

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ちょっと前に観てメモするのを忘れていたので思ったことをいくつか、あげてみます。

待ちに待ったトムフォード監督の新作ということで楽しみにしていました。

というのも、

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私は彼の『シングルマン』という映画の大ファンだったからです。

この作品で、彼は初めてメガホンを取ったわけなのですが、元々デザイナーということもあり、洗練された映像美にただただ圧倒されます。

色のバランス、体を美しく魅せる為の衣装であったり、坦々としながらもどこか情熱的に感じるシーン音楽であったり、主人公ジョージの家の内装、肉体美、目、コントラスト......好きなポイントを挙げていくとキリがないくらい、私にとってこの映画は本当に完璧に近い作品だと今でも思っています。

と、このままシングルマンについてつらつら書くとシングルマンについての記事になってしまうのでノクターナルアニマルズについてさらりと書いていきます。

まず、シングルマンと同様、映像美は迫力満点でした。

洗練されすぎてて感想述べるのも蛇足に感じてしまうけど、誤解している点があるかもしれないということを前提でいろいろ言うと、ストーリー自体は元カレからの復讐劇です。その復讐方法も直接的ではないのにも関わらず、残酷そのもの。

 

(以下ネタバレあり)

 

  • ストーリー

スーザン(ヒロイン)は裕福を愛する母親を持つバリバリのキャリアウーマン。学生時代は芸術家としての道を考えたりもしたけど、世間体やお金のことを気にして芸術家の道をスッパリ諦め、現在は美術ギャラリーのオーナーをしている。同じく裕福な旦那と娘もいて申し分ない生活を送れているが、旦那は浮気をして帰ってこないわ、不眠症に悩まされるわで中々散々な状況である。

そんなある時、元カレのエドワードから一冊の本が送られてくる。タイトルは『ノクターナルアニマルズ(夜の獣たち)』。スーザンは眠れない夜を過ごしながら、その本を毎晩、少しずつ読み進めていく。ストーリーは、旅の道中で家族がギャングに襲われ、夫が逃げ出し、その間に妻と娘がレイプされて殺されてしまう。その後、夫はギャングたちを一人残らず見つけ出し、正義を盾に彼らを殺して復讐する、といったものだった。

本を読み進めるうちにスーザンは『ノクターナルアニマルズ』のストーリーが、自身とエドワード、彼との間に存在したかもしれない子供に起きた恐ろしい出来事のように思え、恐怖を感じながらも、同時にエドワードの才能に惹きつけられていく。小説の中のエドワードは、スーザンが「あなたは精神が薄弱過ぎる」と形容して振ったように軟弱な男として描かれており、ギャングに怯えて妻と子供を置いて一人逃げてしまう様な男だ。状況が状況だから仕方なかったのかもしれないが、ゴミ捨て場のソファに無残放り投げられた全裸の二人の死体を見て、エドワードは復讐を決意する。そして、一人の正義感の強い刑事を味方につけ、無事復讐を成し遂げるが、復讐の際に深手を負って死んでしまう。

スーザンは、『ノクターナルアニマルズ』を読んでエドワードの才能を確信し、セクシーなドレスを身に纏い彼をディナーに誘うが、いつまで経っても彼は現れなかった。

  • 感想

エドワードはヤバい男なので別れてオッケーでしょ!!!!!スーザンの母は、一見金と権力に弱い女のように見えるけど、ある意味でエドワードの弱さを完全に見抜いている。『ノクターナルアニマルズ』を読んで、そもそもこんな小説書くやつとまともに人生上手くやっていけるとは思えないでしょ、って一蹴できるならまだしも、スーザンも元々は芸術家の卵だったのでどうしても才能の方に惹かれる一面がある。うわーダメなやつだ。どちらにせよこの二人はずぶずぶになる相性だと思うし別れて正解だと思うけどな。浮気する旦那も最悪だけど。小説の中で、堕胎した自分とスーザンの娘をギャングにレイプさせて殺すとか悪質にも程があるわ。サイコパスかな。妻と娘を殺されて復讐の鬼になるのはわかるけど、小説の中で正義についてつらつら述べているのにヤバい本送る自分の正義感はどう思っているのかわからんがとにかく陰湿過ぎるので精神薄弱さが手に取れちゃっている。(本としても)「失ったものは二度と戻らない」と別れ際にスーザンに言い放ったエドワードの言う通り、エドワードはスーザンに期待させるだけさせといて、捨てる。芸術家としての才能や執着でスーザンに復讐っていう華麗な復讐劇でもあるけど陰湿だ。スーザンもスーザンで、悩みに悩んで選んだ別れだと思うし、そこらへんも小説家になりたいなら他者の気持ちを推しはかってやればいいのに、エドワードも自分の感情でいっぱいいっぱいで余裕が無かったのかな。一見、スーザンがクソ女に見えるけど、エドワードもダメ男なのでしょうもない。やっぱりこの二人はうまくいかないだろ、と誰が見ても思うんじゃないかな。個人的にはスーザンがどれだけ魅力的か、エドワードの視点でも知りたかったりするので原作も読みたいなって思いました。映画はスーザンの視点で進んでいくので、スーザンが小説の中のキャラクターに自分を重ねて、観客はスーザンに自分を重ねて、というストーリーの追い方が出来上がっているし、エドワードのことがよくわからずに終わるのがいいのかもしれない。

音楽は『シングルマン』の曲調とほぼ変わらないので、聞いたことがあるようなメロディだった。新鮮さはないけれど、シーンにぴったり合っている。OPのダンスのくだりはすっっっごい好きです。

あと、ギャングもやたらセクシーな肉体で、お風呂で泣くエドワードの身体も憂を帯びた表情も相俟って妙に色っぽく描かれていて、前作同様とにかく肉体が美しい。トムフォードはある意味で人間の感情にしか興味ないんだろうな。