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冷静と失禁のあいだ

アンハッピーセットのオマケは幸せな夢を孕むか

両手いっぱいの価値観

当方滅亡なり。我が腹、絞られるが如く痛みを発し、床で大蛇の如く有る我が様酷く滑稽なり。


……てことで現在胃の痛みで死にかけておりますが今日も欲求満たしに来ました。しかし明日朝また病院です。あちこちら異常がひっきりなしに挨拶に来るので対応が大変です。ここは何科ーあっちは何科とか。ちなみに明日は眼科です。

さて、今回は私の視点について話したいと思います。なんか今日はですます調の気分なのでこんな感じで行きたいと思います~
まず価値観のお話をちょっとします。

価値観というものは人それぞれですよね。幼少期過ごした場所や経験したことによって築かれていきます。
たった10年くらいで一生分のその人の価値観や性格が決まっちゃいます。下手したら10年以下くらいか半分か。よく考えると幼少期ってそれだけ重要な時期なのにあんまり何が起きたかなんてはっきり覚えてないです。でもそのはっきり覚えていない出来事が自分に大きな影響与えているなんて思えないですよね。というか、信じがたいです。驚きです。
そんなわけでわたしもよく覚えていないのですが、何があったんでしょうかね。小さい頃の私に。

価値観や倫理観は人格形成に繋がっていると思うので拗らせてはいけないと思うのです。
例えば、殺人鬼なんかは幼少期に猫を殺したことに快楽を見出しちゃう(恐らく命を握っている感覚)らしい。
私たちもよく虫とか蟻を笑顔で殺してましたよね。怖い怖い。自分ももちろん殺していました。
よく覚えているのがひとつだけあって、ナメクジ殺したときですね。虫殺しがなぜか大好きだったようで、ビニール袋の中に水をいっぱいいれてその中にナメクジいれて袋を縛って指でナメクジのいる場所を潰して楽しんでいました。ヤバいです。
ビニール袋の中にいるナメクジは血を流しながら私に抵抗していました。水の色は透明からピンクへと徐々に色を変化させていきました。でもナメクジは逃げられません。わたしが死ぬまで潰し続けるのですから。最後は抵抗も虚しく体を真っ二つに潰してしまいました。命はあっさりと少女であった私の手で無邪気に凌辱されこの世から消えていきました。

今思うと残酷な行為だと認識できます。誰がどう見てもとってもブルータルです。恐らく多くの人が残酷だと非難するでしょう。しかし中には愉快に思う人もいるかもしれませんね。
どういうわけかこの行為が残酷であると私たちは認識できます。
しかし一部の人は認識できないんです。命の重さが本能的に理解できずにそこら辺にいる蟻なんかと同じ目でしか見れないのです。
そういった価値観を持った人が100人に1人ほどいると言われております。
彼らは自らの快楽を謳います。私たちもゲームや遊び、趣味に快楽を見出します。
快楽を見出す対象を間違えているだけなのです。
我々はそういった価値観を持った人々にどう対処すべきなのでしょうかね。
放っておくべきなのでしょうか。でも、人と違うという事にひどく苦しんでいると思います。ただ対象を間違えただけで異常者扱いされます。圧倒的異常者になります。ひとつ間違えただけで牢屋にブチ込まれ、精神鑑定にまわされ、少年院にさようならです。
これなんていうと思います?相談したらふつーの人々はどう思います?これだけで人生は終わってしまします。ジエンドです。敗北の烙印を押されます。

だから殺人は一概に否定できません!なんて言いたいわけじゃあないんですがね。

とりあえず、価値観は私たちの人生を大きく左右するほどの強力な力を持っているのです。
私たちはその力に抗うことはかなわず、自らの価値観を絶対とし日々行動せざるを得ないです。だから間違っているだなんて気づきもしませんし出来ませんし、気付いてしまったら人生は終わります。自我崩壊です。
もっと言ってしまえば、価値観があなたの世界そのものなのです。
よくよく考えると結構怖くないですか?そんなちっぽけなものに突き動かされて行動して人を見て物を見て総ての判断を下しているんですよ、私たちの中で。わたしはすごく怖いですよこの価値観という存在が。

ある日、価値観を否定されました。

おかしい
間違っている
どうしようもない

はい、この三点張りです。
部分否定は私もします。結構きつい言い方でしますが。(気を付けているのですが回りくどい言い方もしてでも言いたくなってしまう…)
まあしかしこの三つは全否定の部類に入るでしょう。軽く死ねと言われているようなものですね。
自分か築いてきたものが『間違っていた』のですから。やり直せたら私もやり直したいです。
授業中隣でペチャクチャと喋っている女の頭と交換したいです。そんなに喋りたいならキャバクラにでも行って存分に喋ってきていただきたいものですね。せめて授業中は沈黙を保っていただきたい。授業がつまらないのはどんなおバカにでもわかりますが黙って頂きたい。たとえ音声付きwikiと内容が大して変わらなくても黙って頂きたい。
こんなこと言った後であれですが、キャバクラのトークスキル、あれはあれで本物の方のものはすごいと思います。
隣の女の話は隣においておきます。ヨイショ。

よ、ようやく本題に入れた…。


この文章もお気づきでしょうが私の価値観にゆがめられています。価値観云々言った後に隣の女はカスだと決めつけている価値観です。ワァォ。
価値観に基づかないで自己表現は無理なのです。これだけ言った後にオイオイって感じですが。ホント支離滅裂だなあ。

そんな歪められた精神病になっている私の生活の視点をお話します。主観的に見た一日を話します。価値観について話すつもりでしたがなんか長ったらしくなっちゃうので視点の価値観をお話しします。少しでもわかってくれると嬉しいな。無理か。健常者のソレとは全く異なっていると思います。自分のと比較したり健常者のと比較してみてください。あなたが健常者かなんて誰にもわかりませんが。


一日の始まりはないです。
とてもアンビギュアスです。なぜなら明晰夢の存在があるから。
私は寝て夢に落ちるとそこで友達や他人と出会います。当然夢の中の他人や友達も自我を持っています。私の思った通りには行動してくれません。なので、現実と大して変わりません。
歩く感覚、味覚、聴覚、視覚、触覚、痛覚・・・すべてあります。移動ももちろんできます。
夢の内容は夢を見ないとわかりません。この点は普通の明晰夢とは異なります。私の場合は自由に動ける不自由な夢です。
夢で人と話します。これも現実と同じで、コミュニケーションをしなければなりません。
夢、現実、繰り返し続けるとだんだん人のパターンや本質が見えてくる気がします。なんせ18年ほぼ一人の空間は家の自分の部屋とトイレとかそれくらいです。寝ても覚めてもわたしはコミュニケーションし続けます。
かなり辛いです、正直。知りたくない事もたくさんわかるようになります。
一番物を雄弁に語るのは口よりもなによりも目です。目を見ればだいたいどういう人かわかります。ずっと人を見てきた結果得られたことです。普通でしょうが。

一日の始まり、というのは厳密にはなくて夢から始まります。
好きな時に起床します。ひどい低血圧なので夢を見る行為は体力を奪い、眠気がひどいです。頭もガンガン悲鳴を上げています。頭痛と耳鳴りが最初のおはようです。
重い足取りでキッチンに向かい、朝食をすませて大学に向かいます。頭痛と眠気は吐き気を呼び起こします。
駅のプラットホームで再び他人に会います。
わたしは電車に乗るために列の後ろの方へ並びます。目の前には人がいます。
電車がホームに滑り込み、さらに多くの人たちがドアから出入りします。
わたしはすぐ窓辺で本を読むスペースを取るか、座るかどちらかです。体調悪いので。
座ると他人がよく見えてしまいます。時折視線があいます。どうして私のことを見たのでしょうか。不安に煽られます。

私の顔に何かついていたのでしょうか?
私の顔が不細工なのでしょうか?
私が何か迷惑なことをしたのでしょうか?
私の恰好が何か変なのでしょうか?
私の服にごみでもついているのでしょうか?

こうして頭の中に?マークが大量に出現します。?マークをつけた兵隊たちは感情や自尊心に刃を向けてきます。
そして、なぜか確信します。

この人、私の悪いところを知っている

こう解釈します。あの女子高生、二人して談笑している。あ、こっちを見た。私のことを笑っているのかな。
あの人席を移動した、わたし何かしたのかな。わたしのこと覚えているのかな。やだなあ。

色んな情報がごちゃまぜになり不安が止まりません。他人は私の心の中で種を蒔いて水をかけ少しずつ育てます。
そだった不安という種は恐怖になります。
電車でこんな感じですから、大学ではもっと酷いです。
さらに不安は恐怖になります。目を付けられた、嫌われた、噂されている、などどいった謎の確信が頭を占めます。
気にしなような振る舞いをしますが、その振る舞いに腹を立てている人がいるかもしれない、と再び種が蒔かれます。こんどはじぶんでまいてしまいました。

また私は恐怖を感じます。友達と話しているときもです。そっけない態度や座る位置、足のむけ方、表情、目線、すべてが情報となって私の頭に入っていきます。考えることは同じです。嫌われたのかな、と思うともう止まりません。なぜ、どうして、なにがいけなかったの?思考は働きつつ私は自分の動作がおかしくないか細心の注意を払って笑います。目線も動かし方を決めています。おかしくないやり方で正確に手を動かし物を食べます。

人は私に過剰な情報を与えます。
無意識の動作に本質が含まれていることを知っているので、一番そこに不安を煽られます。
人の無意識が私の頭の中へ情報として侵入し、領域を犯し、種を蒔いては正常な判断力を奪います。不安を増長させ恐怖を生み出します。

アタマがパンクしそうになるともう一人で帰ります。一人で帰れば以上のことを気にしなくて済むからです。
わたしは割と構ってちゃんなのですが構ってほしい相手は確実に選んでいるので誰でもいいというわけではないのです。もちろん知らない人から絡まれるのもすごくありがたくて嬉しいのですがね。どうしても他人から種を受け取ってしまうのです。

さて、相手が目の前にいないコミュニケーションが家に帰ってから始まります。まさに我、夜戦に突入す、とばかりに。
LINEとTwitter(今は使ってないけど)その他もろもろ。総じて脅威です。
目の見えないコミュニケーションで恐れているのは『間』と、『言いたいことが正確に伝わっているか』という二点に限ります。
この二つは誤解を生みます。不安と恐怖以上に誤解とは絶対的存在で今まで話したすべての私がおそれている不安と恐怖を孕んでいます。誤解は人間関係を確実に裂くハサミのようなものです。ここでも細心の注意を払ってコミュニケーションします。
ですが疲労は限界です。

なぜこの人はこういうことをするの、なぜそんな行動をとるの、どうしてそんなこと言うの

アタマが悲鳴を上げます。理解の範疇を超える他人という存在は私を一番に苦しめます。存在から動作、座る位置、目線、手の動き、喋り方、声色、すべてが私の敵となって襲い掛かってきます。たとえ相手にそんなつもりがなくても私にはそう思えてしまうのです。どうしようもなく。
正直もうしんどくて限界で、心は鉛のような重さで外に出ることを拒否し、夢の中で生活することを望んでいます。他者は私を苦しめる以上の働きをしてくれません。救いの手も相手に申し訳ないのですがその人の心を満たすための手段にされた気持ちになり、ただの偽善に見えます。
総ての他者への行動は自分自身の価値や満足感、虚栄心を満たすための手段になり、人のためという言葉はこの世に存在しない、こういった価値観が出来上がってしまっていました。

他者の存在はありがたく、私のためにくれた言葉や立ち位置も感謝しなければならないものなのですが、同時に一番苦しめている存在ということは否定できないのです。大変申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが。



圧倒的な喜びも絶望もすべて「あなた」という他人がわたしに無意識に差し出しているのです。他人が本当に私に差し出しているものは少ないと思います。ほんのちょっとであるはずです。
しかし、わたしは両手いっぱいにその二つを抱えてしまいます。私の価値観が差し出されたものに魔法をかけるかのように与えられた『少』を『多』に変えてしまいます。また、与えられたものを出来るだけ消化しようとします。

泣いたり、笑ったり、人間関係を良好にするための『差し出されるもの』は消化も受け取りもほんの少しでも良いはずなのです。けれど欲張りなのでしょうか、わたしはあなたが差し出している以上にあなたから受け取ってしまうのです。