冷静と失禁のあいだ

死ぬまで踊り続けるマグロさんの話

他者という外国人の訪問

 

「人が何を望んでいるのか、一生懸命想像して応えようとして、もしそれがとんでもない見当違いだったらその時こそ、どうするの?」

 

 『オクターヴ』3巻より

 

『ワタシ』(たわしじゃないよ)とは何でしょうか。

わたしにはわたしはハッキリとわかりません。とてもあいまいな存在です。しかし、他者とはわたしではありません。ですが、わたしも他者も永遠の他人です。

 

街中なんか歩いているとよく学生が「あ~あいつマジ意味わかんねぇ!」とか「彼氏の言いたいことや思っていることがわからないの」なんて話よく耳にします。え?しませんか?わたしはよく耳にするんですよ。

 世の中にはわからないことが沢山あります。勿論その中の大多数は私の知識不足で、本を読んだり辞書を引いたりニュースを見たりして理解し、知ることができます。

わからない、とは何なんでしょうかね。

 

自分の理解の範疇を超えると人は、「わからない」と言います。当たり前ですが、「自分」以上の枠を超えて物事を考えることはできないのです。

わたしはわたし以上にも、それ以下にもなれない存在というわけです。決められた枠の中で思考し、行動することを「わたし」が決めているのです。

 

 

私は私であるという証明はどうやってして説明すればいいのでしょうか。

それすらも証明できないのに、私たちは自分が自分であるという認識を持ち合わせています。

宮沢賢治が『生まれてくる、は受け身さ アイワズ~云々かんぬん』なんてことルー語(超死語)で言ってましたけど正に、自分が自分であると自分によって認めさせられているんです。超受け身です。

 

そして、わたしはわたし、あなたはあなた、と謎の国境のようなものが出来ているのです。この国境のような範囲は伸び縮みすることは決してなく、あなたをあなたらしく、あなたでいさせるために存在するラインなのです。そこには誰の侵入も許されていない聖域のようなものです。

なので、わからないものはあなたの領域に決して入ることのない客体なのです。逆に、わかるもの、理解できるものは最初から自分の国境の中に存在しているのです。

 

他者も同じです。人の気持ちも同じです。

 

「わからない」は拒絶です。絶対的な拒絶に値します。自分の外へと追い出してしまうのですから。わからないと判断した瞬間、その相手や考え方とは永遠にお別れです。アデュー。永遠の拒絶が始まるのです。

 

わたしは、どんな相手にも絶対に「わからない」と思うべきではないのです。わからないと思ってしまえば、その人を永遠に失ってしまうのと同じなのです。もしとても理解し難い人に出会っても、その人を大事にしたいと思うのなら理解しようと努力し続けることで繋ぎとめることができると思うのです。

たとえそれがとんでもない見当違いというものであっても、「わからない」と決めつけるべきではないと思うのです。拒絶したくないと思うのなら。 

考え続け、誤解に対し、恐れを抱き続けることがその人を拒絶しない方法だと思います。

 

じゃあ自分を理解するって具体的にはどうすればいいのでしょうか。

 

しつこいですが、お互いを理解するなんて不可能です。だって自分のことすら曖昧じゃないですか。

自分のことが100%わかりますか?自分を表現してくださいとかクソ質問投げられても全裸になって「これが俺の生まれたままの姿…本来の俺のあるべき姿なんだ!」なんて人前で説明するわけにもいかないでしょ。

自分を少しだけ理解する方法はあります。

文章を書くことです。こうやってわたしも文章書いています。クソくだらないことだらだらと支離滅裂に、めちゃくちゃに書いています。

こうして、文章を書いて少しだけ落ち着きを取り戻すことができる。

頭に来た時や、死んでしまいたいときなんか文章にすると思考回路がくるっていることが顕著に表れているのが一目瞭然。

文体ではなく、文章のながれ。文体はお洋服くらいの役目しか果たせません。

 

書き終わって、見直してみるとやっぱり文章はおかしくて流れがおかしいことがハッキリと理解できます。

この流れが「わたし」なのです。このむちゃくちゃな、感情的に物事をとらえている人こそ「わたし」。

つまり、文体がその人自身人格なのではなく、文章の流れがその人自身の今の状態をよく表していること。私の文章は支離滅裂無茶苦茶。他人からみたわたしの印象はそんな感じなんでしょう。たぶん、きっとそう。

 

誤解と理解を繰り返しながらぐるぐると人はめぐるのです。自分がわからなくなったら文章を書いて、新しく「あなた」を訪れる人が現れて。こうして、ちょっとずつ落ち着きや平穏を取り戻していくのです。