冷静と失禁のあいだ

死ぬまで踊り続けるマグロさんの話

傍迷惑な綱渡り

誰もいない部屋で、お風呂で、一人のとき。死にたい、とポツリと呟く。はあ、とため息をついて項垂れて。
神様はこの問題の解答例をたくさん見てきたはずなのに私たちにヒントすら与えてくれない。早々に諦めてもがき、苦しまざるを得ないのだ。

死にたいと何回思ったことか。生きていたいと何回思い直したことか。数えるときりがないと思われる。
ところで、この死にたいという言葉は魔法の言葉だと私は思う。

死にたいと思うとき、恐らく自分は変わろうとしているのだ。ハッキリと明確に察知できる感覚、危険と不安。しかし同時に曖昧な感覚がふと訪れる。今の自分と理想の自分のギャップが自分を殺そうと容赦なく刃を向けてくる。この時わたしはリンボと呼ばれるような正に中途半端な場所をふらふらしている。

死にたいと思ったとき、これじゃダメだ、なんとか打開せねばと直感的に理解している。しかし、どうしていいのかわからない。何をすべきなのか、もしくはすべきだったのか。回答が見つからないとき、死にたいと言う。
そこで、本当に自殺してしまうかはその人次第だ。自殺が善悪か決めるのは自身である。価値判断を委ねられているのは各々であり決して社会や周りではない。あくまでもそれらは善悪の判断を自身で決めるための影響を与える程度のものである。
確かに、死ぬというのは逃げに値する行為である。だがその人が決断したことは、その人にとっては死ぬことが最良の選択だったとみなされる。死んだ人の死の善悪は死んだ人にしか判断を許されていない。

死にたい、きっとまた近いうちにいう言葉だろう。どうしてそう思っても生き残ってしまうのか。それは死にたいと思うことが多少なりと甘えだと理解しているからだ。ここで死んでしまってはいけないと理解しているからだ。打開する力が、現実に対抗しようとする力があるからである。
死にたい、でも本当に死んでしまったらどうなるか。その先を考えてみればあっさりと答えはでる。


そこで生きたいと思うか死にたいとおもうかは本当にその人次第。
選択肢を増やしたり消したりしているのはいつも自分である。周りではなく、自分自身だ。
嫌なら嫌な選択肢を消してしまえばいい。けどそうしたくないとわかっているから苦しい。
社会や周囲の人間はうるさい。煩わしい存在だ。しかし、我々が生きていたいと思える要因を与えてくれるのは紛れもなく彼らなのである。それをどう受け止め、選択肢として採用するのかも個人の判断だ。
しかし、生きたいと思う選択肢を奪う要因のもとは社会と周囲の人間である。

だが、我々を確実に殺そうと静かに訪れるのはそのどちらでもなく、時間と年月の残酷さを孕んだ孤独という存在なのだ。

孤独なとき、死にたいなんて呟いてしまったらわたしはきっと死んでしまうだろう。だからこうしてメンヘラという構って要素を自己のなかに生み出し、おのれの性質として確立させてしまっている。メンヘラであることが、周囲にとってははたまた迷惑であるものの、命を繋ぎ止めるための最低で最後の性質なのだ。