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冷静と失禁のあいだ

アンハッピーセットのオマケは幸せな夢を孕むか

二日酔いもいつかはさめる悪酔いだということ

 

小学生の頃から親が共働きの家庭だったわたしは、とりあえず一人遊びに慣れた。物心ついて、初めて努力をしようと思ったことは一人遊びを好きになることだった。それからのあたしは、一人で遊べるものを好きになる努力をすることに努めた。

仲の良かった幼馴染はみんな兄弟がいて、私の家に遊びに来て、夕方ごろ帰り際に、「○○ちゃんは兄弟いるから妹ちゃんとおうちに帰っても遊べるよね、毎日がお泊り会みたいで羨ましいな」としょっちゅう私は友達に文句をたらしていた。

そんな、一人遊びが好きじゃないけど、それに慣れざるを得なかったわたしは、ビー玉で遊ぶこともあった。ぬいぐるみとシルバニアファミリーの次くらいに好きだった。その違いは、ぬいぐるみとシルバニアファミリーはどちらも自分にとって都合のいい、だけど自分とは全く関係ない小世界を築ける事と、自分の見ている世界そのものを都合よく解釈することにあると思う。

ビー玉そのもの自体、とてもきらきらしていて、見ているだけで楽しかった。

白い紙とかに置いて、光に反射させると、パレットに良い具合にぶちまけられた絵具の色合いみたいに白い紙に影が伸びて、色んな種類のビー玉を紙の上で転がしていた。

ある日、あたしがいつもの様に部屋の中で一人遊びしていると、外の景色、空の色がイマイチ気に入らない色合いであることに気付いた。曇りの日は、今はちょうど良く涼しくてジャズとかセンチメンタルな音楽が似合うから好きだけど、そんなもの耳にしたことのないガキの私はとにかく晴れの日が好きで、曇りの日が許せなかった。ガキのわたしは空を睨むことによって神様に文句を付けていた。

なんとかこの汚い色合いをどうにかできないか、と試行錯誤の末に、ビー玉を通して空を見てみた。これ、実はけっこう危ないんじゃないか。みなさん太陽は見ないでくださいね。あいつらは私たちにどういう形でも直視されると、過ぎた照れ屋だから目を潰してくるから。

そんな、シャイボーイの話は置いてといて、ビー玉を通してみた空はなかなか綺麗だった。歪んだ景色の中で、同じ色調の色を含み、少しだけ明るくなった世界に対してあたしは満足そうににんまり笑顔を浮かべていた。

こんな風に、世界は見方次第で、きらきらしたり、汚かったりする。やっぱり、世界のことを直視すると汚いとこばっかり見えてしまう。世界のことを一歩下がって遠くから見るか、何かを通してみるか、自分が狂うかの3択しか、いつだって私たちには許されていない。

子供だったあたしは、生き方が当時はそれなりにうまかったようで、ビー玉を通して世界を都合よく変化させてみることが出来た。世界は都合よくビー玉の色によって変化した。変化した世界はいつもきらきらして、色調も整っていた。

けど、いまあたしの手元にビー玉なんてない。それは幼い頃の産物だからである。ビー玉だけじゃ世界なんてとても見て居られない。それだけじゃ満足できなくなってしまった、という理由もあるけれど。

今のあたしは悪意というフィルターを通して世界を見ることしかできない。他に何も持っていない。一歩下がって世界を見ようとする気にもなれない、世界に関わりたい傲慢野郎であるからである。

だからきらきらしている世界の側面を見ても、そこに何かしらの悪意を感じてしまうのだ。ブログ読んでる人にはわかると思うけれど、時期によっては自分に酔ってるなあと思うことも読み取れる、けどこの酔い方も二日酔いのような類の『悪酔い』であることも簡単にわかる。

『酔う』ことを解禁されたこともそうだけど、子供の頃の産物を自ら捨ててしまったわたしは、如何にも、悲しいどうしようもない大人への一歩を踏んだという訳だ。