冷静と失禁のあいだ

死ぬまで踊り続けるマグロさんの話

死は完結で簡潔

久々に、幼馴染からの連絡が来て、嬉しいなと思った矢先、内容をよく見たら訃報だった。

亡くなったのは、小さい頃お世話になった人で、つい最近、一か月ほど前に、エレベーターの中で会話を交わしたばかりだった。

まだ耳に、昔から変わらない低い声が残っていて、訃報を見た瞬間、脳内で再生されたほどであった。

「最近、忙しいの?無理しないで、頑張ってね」

そんな、何気ない会話をしたばかりだったのに。

死んだ、という短いワードに、その人が含まれてしまったのだ。その人の人生も、わたしと喋ったこととか、一緒に行動したこととか、何もかも全部その言葉に集約されてしまうのだ。だから、亡くなった、という事実が、なかなか信じられなかった。

この年になると、だれだれが死んだとか、そんな話ばかり身近に溢れてくる。そういう話を聞く度に、現実感はますます薄れていく。

祖父が亡くなった時もそうだった。

亡くなった現場に居合わせたが、全く死を実感できなかった。久々にあった祖父は、小さいベッドの上で激しく痙攣していて、目はどこを向いているのかわからず、体は限界までやせ細って真っ白な肌から骨が浮き出ていた。最後に会話を交わした時には、祖父も私も好きな太宰の話をしたっけ。だから、わたしの記憶はそこで完全に止まっていて、ベッドの上で苦しそうにのたうち回る祖父は別人のように感じてしまっていた。だから、目の前で亡くなってもわたしは涙一つ流さずに、個人が死という形で完結されたのをただ傍観しているかのような気持ちになった。

死を実感したのは、葬式だ。

みんなが同じような黒い服を身にまとい、百合の花を手に持っていた。その様子が不気味で、怖くて仕方がなかった。今でも葬式は苦手である。

無表情で手渡された百合の花を受け取った私は、棺の中の祖父の体のそばにそっと寄り添わせるように置いた。瞬間、涙が止まらなくなったことをよく覚えている。真っ白になって、綺麗に化粧されて、死を彩られた祖父は、棺の中で完璧に死人として扱われていた。その事が、死んでしまったという事実を突き付けてきて、悲しくて仕方がなくなった。ボロボロと涙が溢れ出て、見かねた父親が頭をなでてくれた。

あれから、お葬式が本当に苦手で、誰がなくなっても、たとえどんなに親しくても、事実を受け止めないようにするためにお葬式に行くことは避けている。ああいう場所で、知り合いに会いたくないという気持ちも大きい。

完璧な死を目の前にしなければ、もしかしたら、どこかで楽しくやっている可能性だってなくもないかもしれないのだ。

死を確認することは、向き合うことは本当に怖い。お葬式がその怖さをダイレクトに伝えてくる。

 

「お葬式、こない?」

というメールに対して、「いかない」ではなく「行けない」と返事をして、電源を落とした。