冷静と失禁のあいだ

死ぬまで踊り続けるマグロさんの話

1361文字の死にたい

カミサマ神様かみさま、って一生に一度くらい誰でも本気で祈ると思う。

祈りのポーズは誰だって作ることが出来る。手を合わせるだけで、ほらあなたも助けを乞う人、祈る人になれるよ。

あたしだってベッドの中で、ママのお腹の中でも祈った。あたしが生まれた時は首の周りにへその緒が絡みついていて危うく死にかけたからだ、たぶんその時は生きたいここから出せ畜生とか思って何とか助かったんだと思う。

でも、100%届いてないだろうな、と。届いているとしたら鬼畜にもほどがある。

何度も何度も頭を悩ました、カミサマってなんだ。世の中とは何だ。

神様は圧倒的で絶対的過ぎる存在だ。この世は正解のない世の中だと思うけど神様だけはいつも正解の判断を握ることが許されている。

世の中は、ただの人の集合体だ。マジョリティがすべてのカギを握っていて、金や権力やマジョリティ以外が理解できない横文字の知識が人の優劣を支配する。

だけど、人が死ねば終わる、つまらん社会に振り回されなくて済む。

人が、人生で抗えないくらい圧倒的な存在に出会う瞬間がある。

なにかな。

生き死にだ。

強制的に生まれさせられて、強制的にいつか死ぬ。

人生の中心には必ず死がある。あたしたちは死にも生にも振り回される。

死はあたしたちの中心にあって、否応なしにぶんぶんとあたしたちを振り回してくる。生はダンスだ。どれだけ、死に振り回されながら、綺麗にかわいく、上手に踊れるかの一回勝負。死が真ん中くらいにちょうどあって、そこを中心にチェーンのようなものがあってあたしたちの命とつながっている。年を取るにつれて、チェーンの輪っかが一個分ずつ短くなって段々と死が近づいてきて、輪っかの余裕がなくなったときにあたしたちは立派な死を迎える。走馬灯で描かれるのは生きている間にどれだけ上手に踊れたかのセーブデータのロードが5秒くらい読み込まれて闇に飲まれて終わる。終わったら、完結した存在として扱われて誰からも忘れられていく。人間は忘れる生き物だからだ。永遠に何かを覚えて居ることはできない、ましてや他人の事なんて。

これだけ書いて、何が言いたいかというと、絶対的な存在の奴隷であることに疲れた。もう、やめたい。そろそろ限界だ。

これまで、数え消えれないくらい死に恋い焦がれた。本もたくさん読んだけど、死について、どれだけ考えたり、考察してもあたしたちは死に近づくことはできない。死は絶対で圧倒的だからだ。自殺するか病気になるか、事故死するか殺されるかしないと一ミリも距離を縮められない。体を傷つけても、赤いビーズの塊が、ドロドロと溢れ出て、苦痛と共に、体から警告音が鳴り響くだけだ。決定的な死を迎えるためにはそんな赤いキラキラしたものを見ないで、ゼロかイチかくらいの違いで、終わらなきゃいけない。

体が鉛の様に重くて、思考がハッキリしない。

体が鉛の様に重い、とかマジで使い古された表現過ぎてこれを読んでる人は「ふーん」程度に流しちゃうと思うけど、冗談ぬきで、鉛のようなのだ。

このまま生きていても、あたしが鉛なら、あたしは身体の重さで、一生うまく踊ることはできないだろう。

生きていても、死んでいるようなものだ。

止まっているからだ。綺麗に踊れないからだ。

何が辛いってそりゃ、止まっているとわかっていて体が微動だにしないことだよ。