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これは、故意じゃない。②

小説

恋を前にすると、人は何でも差し出してしまいたくなる気持ちになることを知りました。世界中の人間たちも、みんな誰でも恋をする。みんなYちゃんと同じような気持ちにさせられているのです。こんなにも胸のうちに今にもオーバーフローしそうな情熱を抱けるなんて、幸せな、と、Yちゃんは驚くとともに感動しました。

初めて、知らない人の目や、友達といった自分から近い人の目を気にするようになりました。それまでのYちゃんは外見に拘ったことがなかったのです。しかし、恋をしてからというもの、Yちゃんは身だしなみに力を入れるようになりました。好きな人に見てほしかったからです。だらしなく伸ばした髪の毛を流行りの女の子のように可愛く切りそろえ、丸出しだったおでこを、パッツンの前髪で隠したり、長いスカートをギリギリまで短くしたりしました。それまでの、身なりに気を使わなかった自分を心底恥じました。

やがて、淡い恋心が、本気の、本当の恋になりました。好きな人を前にすると、Yちゃんの処女の心が、力をこめて勝手に踊り出しました。

あたしを見て

あたしだけを見て

ほかの女の子に目をやらないで

愛して

愛しているよ

触って

キスがしたいな

あたしだけに言葉が欲しいの

こっちを向いて

セックスしよう

気持ちが、Yちゃんの体を勝手に動かしていました。背中にあるねじを巻かれた人形のように、Yちゃんは、彼の気を引くために活動しました。恋を前にして、Yちゃんは処女の乙女心に動かされる、操り人形でした。

これが本当の恋だと確信して以降、毎日、処女の恋する心が、Yちゃんの、その、好きな人へ近づけと命令してきました。

Yちゃんは、それに従って彼の席の前に座りました。先生から配られた、つまらない授業のプリントを手渡す際に、彼の顔をじっと見つめてみました。一瞬でも長く彼の目に留まっていたかったからです。

彼の長い睫毛が、不思議そうに何度も瞬きを繰り返していました。彼の目の色素はとても薄く、Yちゃんと同じくらい薄く、お互いの瞳に、不思議な顔をしたお互いが映っていました。

彼は、Yちゃんがあまりにじっと見つめてくるので、顔を真っ赤にしてYちゃんから目をそらしました。それでもYちゃんは彼の瞳を追いかけていました。

しばらく追いかけっこを続けていると、先生に後ろを向きすぎだと注意されたので、仕方なくYちゃんは、しょんぼりして、つまらない数字の羅列や恋をするのに何の役に立たない記号が書かれた黒板に目を向けました。しばらく文字が黒板に書かれていく様を眺めていましたが、全く頭に入ってきやしません。それも当然です、Yちゃんは恋する乙女、恋する処女の心を持った女の子なのですから。

Yちゃんは数式や黒板には見飽きてしまったので、次に、先生の顔を見ることにしました。だけど、先生の口から紡がれるのは、シェイクスピアのような興味深い劇的な恋物語でもなければ、テクストの快楽にある、ロマンチックに綴られるロラン・バルトの文でもありません。機械的に、教科書に沿って話が進んでいくだけです。

つまらない話をする先生の顔を見ながら、先生の顔は、年の功を深く刻んだしわだらけで老けて見えるし、髪の毛は禿かけで白髪もちらほらと見え隠れしているし、ぜんぜん彼に似てないなあ、ということをぼんやりと考えていました。

それからというもの、YちゃんはYちゃんなりにオシャレに気を使ったので、頑張った甲斐があったのか、彼から可愛いね、と褒められる日が増えていきました。こうして、好きな人と単純接触効果が発揮されるような行動を何回も繰り返し、何度も逢瀬を交わし、逢瀬の次はハグを交わし、ハグの次はキスも交わしました。キスをして、唇と、ぴったりとくっついていた体を離したとき、Yちゃんは好きな人に告白されました。人生で一番幸せな瞬間でした。

「Yちゃんのことが、好き、かもしれない」と、彼が顔をそむけながら言いました。Yちゃんは彼の背中に抱き付いて耳を当てていました。彼の心音に安心していました。胎児が、母親の心音に安心するように。

「かもしれない?」と、Yちゃんはあえて意地悪を言いました。

「いや、好き、です」彼はますます縮こまって言いました。背中を丸めて言いました。

「ふむ、よろしい、あたしも、好きです。あなたが、すき」Yちゃんは両腕で彼のことを包み込みました。Yちゃんの腕は少し足りませんでした。

こうして、Yちゃんは、処女なりの苦労をしてから、彼と付き合えるところまで何とかこぎつけました。

付き合い始めて何か月かたったある日、Yちゃんとその彼となったボーイは、処女と童貞を捨てる行為をしました。それは、捨てる、あるいは、脱皮する、という作業に近かったようです。新しく、誰も知らないようなワクワクする秘密を発見した気分でした。

服を脱がされ、裸にされて横になり、お互いの体の輪郭をなぞって、存在を確かめるかのように触れ合いました。セックスをしているとき、Yちゃんは自分と他人の境界線が無くなっていくような感覚にとらわれました。

だんだんと自分が、精神的にも柔らかく、ふにゃふにゃになっていくのがわかりました。彼が触れたYちゃんの体の部分が、Yちゃんを、自然な、生まれたての状態に戻していきました。触れられた場所が徐々に熱くなって、しばらく熱を持った後に緊張が一気にほぐれていきました。

触れ合っていくうちに、Yちゃんと彼は、境界線が見えなくなるような、輪郭を失っていくような、自我を失っていくように、ふにゃふにゃになっていきました。Yちゃんにとっても、彼の存在がふにゃふにゃになっていき、Yちゃんを受け入れ、Yちゃんも彼を受け入れ、お互いの境界線が曖昧になっていきました。

もうYちゃんには、自分が彼なのか、彼がYちゃんなのか全く理解できませんでした。セックスをすることによって、二人は、無理やり一心同体にさせられてしまったようです。

セックスが終わる頃には、二人は、物理的に一つの状態になくても、精神的にはずっと繋がっていて、一つになっていました。心の中には、多幸感だけがありました。自分という概念が消されてしまったような気分でした。確かに、はっきりと、満たされていく感覚がありました。なんと幸せなことでしょうか。

Yちゃんと彼は、事の後、疲れて自然と添い寝をしていました。パパ以外の人と添い寝をしたのは初めてでした、また、愛する人との添い寝も初めてでした。二人はベッドの上で寄り添って、静かに寝息を立てていました。

すると、ふと目を覚ましたYちゃんが顔をあげて、彼の胸に顔を埋めました。彼に頼んで、Yちゃんは、彼の腕で顔を覆ってもらい、昔のように、秘密基地を作ってもらいました。ここはYちゃんだけの秘密基地です。この時、はじめて気付いたのが、彼の心音がとっても早いスピードでドキドキとしていたことでした。

「すごくドキドキしてるね」とYちゃんが言うと、彼が「好きな人が近くにいてドキドキしないわけないでしょ」とYちゃんを小さく、恥ずかしそうに叱りました。

より一層、Yちゃんは彼に対して感情が高ぶるのを感じました。そして指で、耳で、全身の間隔を使って、彼の心音を拾おうとしました。

パパの時は、はっきりとは音も聞こえなかった、静寂が保たれていた秘密基地に、心拍という愛情にあふれた音楽が流れていました。Yちゃんは、この時から添い寝をすることが大好きになっていました。 

Yちゃんの処女の心は、健全に保たれていました。

好きな人と添い寝をして、好きな人とキスをして、好きな人とセックスをする。

セックスを済ませてしまった今、Yちゃんからは、世間一般で言うところの処女は失われてしまいましたが、Yちゃんの思う所の処女の心は失われてはいませんでした。

長い、長い、彼との恋が終わるときまでは。

 

 

ある、ちょっとした出来事がきっかけとなって、ずるずると彼に依存してしまったYちゃんは当然、存在が彼の負担となっていました。気付きつつも、やめられないのがYちゃんです。ふられてしまうまで何度も彼の気を引こうと手首を切ったり首をつったり自殺未遂を繰り返したり電話したりと手段を選ばず彼を縛ろうとしました。しかし、頭のいい彼はYちゃんに依存することなくキッパリと恋を諦めYちゃんのもとから去っていきました。捨てられても尚、Yちゃんは彼の、Yちゃんを諦めて自分の人生に集中していこうという強い姿勢に惹かれ続けました。

暫くの間、グーグルを開く度に検索履歴に「好きな人 忘れる方法」と表示される日々が続きました。何度も検索を繰り返し、全く関係ない他者の悲恋と重ねて忘れようとしましたが、うまくいきませんでした。検索結果に納得いかないのも当然です、だってYちゃんと彼の恋は一通りしかありません、前例のない恋愛です。答えなんて、どこにもあるわけがないのですから。ひたすら、後悔して彼じゃない他人に向かって懺悔をするような恋愛をしていくしかないのです。

彼との恋愛があっけなく終わりを迎えてしまい、途方もない悲しみに暮れていたYちゃんは、ある日、彼以外と、添い寝をしてしまいました。

それは、彼によって作られた寂しさが、Yちゃんの処女の心を覆いつくしてしまったからです。しかし、彼はもういないのです。Yちゃんの寂しさを埋めてくれるものはありません。彼によってあけられてしまった寂しさの穴はほかの何かで代替えできるものじゃないと、きちんとわかっていながら、いつの間にか、寂しさにコントロールを委ねてしまいました。

寂しさは、底知れない恐怖に似ていて、先が見えない恐怖の唐突に宇宙に現れるブラックホールのような穴でした。添い寝もまた、ブラックホールに飲み込まれていくような行為でした。添い寝するたびに、自分の心や気持ちは整理されなくなっていくのでした。それでも、Yちゃんは、とっさに現れた寂しさに対しての応急措置として、他人との添い寝を選んでしまったのです。これが、Yちゃんの処女の心を崩壊させてしまう事になる、選択の誤りだとずっと後悔することになります。それでも、やめられないのがYちゃんの悪い癖になっていました。

次の添い寝の相手は、相手は、男の人ではなく、女の子でした。Yちゃんのお友達でした。

添い寝をしようと自ら頼んだ訳ではなく、たまたま一人暮らしの女の子で、寝床であるベッドが一つしかなく、二人で使おうとなったから、必然的に一緒に寝ることになったのです。

それでも、添い寝は添い寝です。

Yちゃんは、寂しさに任せて、女の子に体を寄せました。

女の子は、「寂しいの?」とYちゃんに尋ねると、Yちゃんは、「うん」と、答えていました。狭いベッドで、二人は寄り添い合いました。

これは処女の心から出た言葉ではなく、寂しさから出てしまった返事です。女の子は、とても優しくていい子だったので、Yちゃんに「おいで」と一言だけ言いました。心を擽られたような感じとともに、流されるようにYちゃんは、女の子の胸に、いつものように顔を埋めました。

女の子の、柔らかい二つの山、山ほどじゃない中途半端な二つの丘が、好きだった彼やママの時とは違う感触で、なんだかYちゃんを柔らかく拒絶してくれているようで、安心しました。彼女にすべてを委ねることなく、添い寝ができたから、女の子との添い寝の方が安心できました。 

「添い寝って、いいよね」Yちゃんは静寂の気まずさから、適当に会話を投げかけました。

「うん」と、友達は立った一言、乾いた返事をしました。

「物理的に近くなることってすごく珍しいことじゃない、一緒に寝ることってすごく特別なことじゃない?ただの友達なのに、友達以上の距離で、あなたの心音を聞けるの、すごくない?背徳的じゃない?」

「ね、本当に。いつもはこんな距離でいないのに、なのにまだ友達だなんてね、こんな距離で、友達だなんて不思議なことだよね」

顔が隠れない程度に、体を埋めると、背徳感と少しの安心感が変わらずついて来ましたが、あの柔らかい丘が優しく拒絶してくれるので、バランスの良い心地よさがありました。しかし、しばらくすると世界が捻じれた音がしました。心の中で何かが、限界まで捻じりきると、突然、プツン、と音を立ててYちゃんの中で切れてしまいました。

世界が変わる音を聞いたのは、初めてでした。ガラリ、とかドン!みたいな漫画のような効果音がついた衝撃はなく、限界までピンとなって引き延ばされた糸が、静かに、静かに、細く、パチンと切れるように。

ああ、好きな人以外の、ほかの人と添い寝してもいいのか。だって、実際、この女の子も「おいで」と優しくいってくれたわけだし。実際好きじゃない人との添い寝は、こうしてできちゃっているワケだし。じゃあ、いいのか。相手の女の子だって、嫌なら拒絶してるはずなのに、だめって拒絶してこなかったし、むしろ歓迎してきたし、いいのかなあ。しかも、ちょっと安心感も得られた。なんだか意味わかんない背徳感もあるけど、あとで適当に精神薬を飲んでなんとかしよう。薬で埋めてしまおう、もういいや、なんでも。

と、Yちゃんが自暴自棄になりかけていた時に、パパと同じように、女の子がYちゃんの事を優しく撫でました。

「大丈夫だよ、大丈夫。よしよし」と、女の子が言いました。

Yちゃんは「うー、うー」とだけ唸り、ました。ひたすらに唸りました。全然大丈夫じゃなかったからです。何が大丈夫なんだ、大丈夫だなんて言葉を一方的に押し付けられると、ありがとうって返すしかなくなってしまうじゃないか。なんて残酷な言葉だ。本当は全然大丈夫じゃないのに、と、思考がひとりでに喋りはじめたのでYちゃんは、どういった風に返せばいいか言葉に詰まって、とりあえず唸るのでした。

「うーうー」

「はい、よしよし~なでなで~」と、友達はYちゃんをなでなでしました。小さい頃、Yちゃんに優しくしてくれたパパのように。

「うーうー」というのがYちゃんにとっての、精いっぱいの返事でした。好きな人に振られた時に作られた寂しさを、彼女に相談できずにいたので、とりあえず唸り声で表現しました。女の子はYちゃんの事を子供のように扱い、あやすと、その様子を笑ってYちゃんが眠りにつくまでの間、頭を撫で続けてくれました。

でも、女の子の手は、パパよりずっと小さい手で、腕も折れそうで、パパより細くて弱々しい腕でした。それでも、Yちゃんを包み込んでくれました。友達の女の子に包み込まれたYちゃんは暗闇の中で、寂しさの心で思考をしました。

やっぱり、包み込まれると、そこは秘密基地でした。こうして、Yちゃんには処女の心を踏みにじる、背徳感がまたひとつ、生まれてしまいました。ただの友達の、好きでもなんでもない女の子という他人との添い寝で、背徳感という名前の、秘密基地が生まれました。

 

 

Yちゃんが添い寝で背徳感と寂しい安心感を得られ、処女の気持ちがほとんど完全に消え失せたのは、女のことの添い寝から何年も経って、Yちゃんはとりあえず大学に入り、一年間を適当に過ごし、大学二年生になってからでした。

大学生とはやたらと金を使う生き物です。飲み会でやたらと打ちあがりたがります。すぐに酒を飲み、食事に人を誘い、カラオケや無駄な雑費に金を費やす生き物です。要するに、暇な生き物なのです。Yちゃんは、コミュ障だったためにそれらにお金を費やすことはほとんどなかったのですが、ゲームや本にお金を出しているうちにだんだんとおカネがなくなってしまい、三万円のお小遣いだけではやりくりできなくなっていました。

ある日、インターネットでお金のなさを嘆いていたところ、YちゃんのTwitterの発言をみかけた大学のお友達から、幸か不幸か、添い寝リフレでのバイトに誘ってもらえたのでした。Yちゃんの大学では珍しいタイプのバイトでしたが、そのお友達は大人しい子で、とくにバイトに慣れている様子がなかったので、Yちゃんはどこかで安心して彼女の後をついていきました。