冷静と失禁のあいだ

死ぬまで踊り続けるマグロさんの話

冬の名残は静かに揺れて

春が来た。
鮮明、と言う言葉を手放してから、いや、正確にいうと、鮮明という言葉が私から離れていってから、桜の花びらだけが、嫌と言うほど目に付くようになった。
気温が人々を歓迎するかのように暖かさを持ち始め、風には、時折背中を押してくれる冷静な冷たさがあった。
桜の花びらは、とても綺麗で、ひらひらと舞ってはどこかへ飛んでいく。私は地面に落ちてしまった花びらを見届けることもなく、風に吹かれている花びらを視線で追っていた。
桜の木はどこにも、見当たらないのに、桜の花びらは確かに存在している。それだけで、美しいと思える。
やがて、桜の木が美しいと思っていたのか、花びらだけを見つめていたのかわからなくなって、わたしは静かに鮮明という言葉を風に流した。
穏やかな春が来たのだ。

「ねえ、もう冬は終わったよ」と、友達が言った。
「うん」と、わたしは答えていた。
「もう春だね」
桜の木なんか、どこにもなかったのかもしれない。
桜の木は、冬の中で静かに枝を揺らしている。