冷静と失禁のあいだ

死ぬまで踊り続けるマグロさんの話

春日狂想

愛するものが死んだときには、自殺しなければなりません。

愛するものが死んだときには、それよりほかに方法が無い。

けれどもそれでも業が深くて、なほもながらふことともなつたら、

奉仕の気持ちになることなんです

 

愛するものは死んだのですから

確かにそれは死んだのですから

もはやどうにも、ならぬのですから。

 

これは、中原中也の『春日狂想』という詩の一部なのですが、個人的に気に入っていて思うことを書いてみようかと思いました。

わたしは文学に造詣が深いわけじゃないので、詩集を読んでも、感覚で「ああ、いいなあ」とか曖昧な共感しか覚えることができません。なので、読んだ本の解説をしたり、感想を言うといった内容の記事は可能な限り避けているのですが、あまりにも五月の季節が春を忘れてしまっているために、ふとメモのようなものを残したいと思いました。

詩集を読んでいて、気に入った一節なんかがあると、付箋を付けたり、その時その文章に何を感じたかをペンで書きこんだりしています。

本来、詩というものは著者の歴史的背景や時代背景(当時の思想とか)などと比較しながら読むと楽しめると思うんですが、最近は、というか、そういう楽しみ方を心得ていなかったので、読書の癖というものでしょうか、わたしは声に出して読んでみたりなどしかしていませんでした。恐らく、本来の読み方で読んだのは『シェイクスピア詩集』くらいかと思われます。(わたしは彼の詩集を読んで彼の人格がとても苦手になりました)

 

愛するものが死んだときには、の、愛するものとはなんでしょうか。

人ですかね、物ですかね。

愛する、の定義を考えると、人でもモノでも、執着の対象のことなのかと思いました。

そもそも、愛とは、と言われましても、かくいうわたしも、人を愛したことが少ないので(自信もないし)、如何せん恋くらいしかわかりませんが(恋はとても性欲の強さを感じる)愛だと、すべての欲望を抜きにしてでもなお求められる対象、身を捧げられる対象、少なくとも、恋よりもっと高尚なものであるように思えます。

とにもかくにも、あなたが愛している事柄、人でも趣味でも、なんでも、ちょっとあてはめてみてください。

そしてあなたは愛することを失って、自殺しなければならない。

自殺とは諦めのことなのですかね、気持ちを殺すような。そんなような。

対象を失ったら、当然私たちは諦めなければなりません。無いものに対して、感情を生じさせることは不可能ですし、それに対して行動しようともできません。

それより他に、方法がないです。

それでも、わたしたちは愛するものを失っても、自分の何かが失われることはありません。愛する対象は、わたしたちの前から消えてなくなっても、何も残してくれませんし、与えてもくれません。さらにいうと、私たち自身が何かを失うことはありません(傷ついたりしても、それはあなたが勝手に傷ついているだけで)せめて目に見える形でもいいから、傷くらい残してくれればいいのに、と、わたしはよく思います。

でも、そんなものとは関係なく、生きねばならないのです。

愛するものを失ってしまったら、わたしたちは、奉仕の気持ちにならなければならない。ならざるを得ない。

愛とは奉仕の一種な気がしますが。

奉仕とは『してあげること』なのでしょうか。

では、誰のために?

自分じゃない誰か、他人のためか。

それとも自分自身のためか。

中原中也は『そのもののために』と言ってます。失われたもののために、ただ、奉仕の気持ちになれと。何かに対して、与える存在になれと。

一体、この時期の中原中也に何があったのか知りませんがとても前向きな詩であると思います。(※今ちゃんと調べたら、妻と息子が立て続けに亡くなったときに書かれた詩だそう。)

もちろん、この詩がこんな短いことはなくて、ちゃんと続きがあります。

この詩以外にも、お気に入りの詩がいくつかあって、ぜひ読んでほしいのですが、少し、あることについて、考えてほしいと思ったのでメモの様に思ったことをまとめてみました。

この詩の続きの、奉仕について。

あなたにできる奉仕とは何ですか、あなたに何ができますか。

あなたの考える奉仕とはなんですか。

そういう事を考えながら、続きを読んでみてほしいのです。

ということで、詩について、わたしはこういう読み方をしています。

詩は小説と違って、いろいろと考えを巡らせ、自分ならば、と、寄り道をしながら読むものであると、わたしは思っています。